その他

平成最後の・・・

明けましておめでとうございます!

今年もつぶやきをよろしくお願い申し上げます。

さて、いよいよ「平成」と呼ばれる時代が終わりを迎えます。

年始早々くだらないことで申し訳ないのですが、私たち僧侶は、年号が変わるたびに困ることがあります。

それは、年忌(法事)の計算がややこしくなるということです。一周忌や七回忌くらいならまだしも、三十三回忌くらいになりますと、計算がややこしくなり、例えば平成元年と昭和六十四年がくっついて「ああ~!どないなるねん!」と、知能指数が低い私は行き詰ってしまうのです。

まあ、それはさておき、大正15年と昭和元年、昭和64年と平成元年。このように同じ年でありながら元号が異なる二つの時代が存在する場合、どちらが時代として優先されるのでしょう?

単純な疑問ですが、来年1月に生まれた子供は平成三十一年生まれといわれ、来年六月生まれの子供は新元号の生まれと区別され、これから百年もたてば・・・ああ、ややこしい!

考えるだけでもややこしいです。いっそのこと元旦から新元号に変えてくれれば良いのに・・・そんなことを考えながら、時間を過ごしてる私は単細胞人間です。

考えてみれば、いつの時代も仏さまの眼で見れば、至極単純な事ばかりなのです。ややこしくしているのは、いつも私たち人間であるということ。一年という単位も人間が便宜上作ったものであり、時の流れに区切りなど作ることは不可能なのだということ。

単なる春夏秋冬の繰り返しであり、その繰り返しの中で、出会いと別れを重ねているのが私たち人間なのです。そこに元号などというものを組み込もうとするものだから、人間は本当にややこしいことが好きなのですね。

ともあれ、今年一年がややこしくない一年でありますように。


ああ、花の應援團!

すみません、年末にもう一つ。

以前に書いたように、うちの長男は大学の應援團吹奏楽部に入っておりました。

実は、先日クリスマス直前に、息子の大学最後のイベントに行ってきました。

その應援團の最後のパフォーマンスが京都にて行われました。

最後だというので、私も昼からスケジュールをあけて、息子の最後の晴れ舞台を見に行ってまいりました。

そもそも應援團は、指導部、吹奏楽部、チアリーディング部の三つからなり、それぞれ厳しい練習とそこから生まれる強い団結が、大学の誇りとなっています。

息子の應援團も今年一年頑張ってきましたが、4回生としての最後のパフォーマンスが先日大学内のホールで行われたのです。

率直に感想を述べますと、この4年間の息子の生活は、本当にうらやましいくらいに充実したもので、親として、この大学のこのクラブに入って本当に良かったと思っています。・・・すみません、かなり親バカが入っています。

しかし、今の時代、これほどの充実感をもって4年間の大学生活を送っている学生は少ないのではないのでしょうか?

恥ずかしながら、私自身がこれほどの充実感をもって学生生活を過ごしたか?と問われれば、否!と答えざるを得ません。

それは、現在の私たちの普段の生活においても、「いかに充実した時間を過ごせるか?いかに自分を賭けて力一杯の日々を過ごしているか?」ということに繋がっていると思います。

“今のこの一瞬に命を懸ける!”

こんな人生が、本当に悔いのない人生と言えるのでしょうね。

しかし、最初に聞いた太鼓の音だけは、太鼓の皮が破れるのではないかと思うくらいに驚きました。あれが魂の一打なんですね!


一斉に

先日のことです。奈良県のとあるお寺でお話を始めた時のこと

ちょうど始めてから五分くらい経ったころに 本堂中に緊急地震速報が鳴り出しました

普段こういった場所では 携帯電話はマナーモードにされているものですが 緊急地震速報だけは そんなことお構いなしに 大きな音で危険を知らせてくれます

ただ やはり時と場所を選んでほしいもので 「さあ これからお話の本題に入っていこうか…」というところで 本堂の中にいる人たち全員の携帯が一斉に鳴り出すと(私を含めて) これはもう収拾がつかなくなってしまいます

確かに揺れはしたものの大したほどのものではなく すぐに収まりはしたのですが 本当の意味でのざわつきがその後に待っていました

まず数人の僧侶が 「大丈夫ですか?」などと横から声をかけてくる

「大丈夫、話が始まったところだから、邪魔をしないで下がっていて。」

そう声をかけて下がってもらったところに、お参りの皆さんが、皆一斉に携帯電話を取り出し、自宅に電話をかけ始めました。

揚げ句に「ちょっと家が心配だから 戻ってきますわ」などと 数人がいそいそと本堂から退出する始末

「もう揺れも収まったから大丈夫ですよ」と言ってはみるものの どなたも聞いて下さってません

何とか静けさを取り戻したのはそれから10分ほど経ったときでしょうか

つくづく「人間とは心の定まらない生き物であるな」と考えさせられました

「身はここに 心は信濃の善光寺」

ほんの些細な出来事で 体はお寺の本堂にありながら 心は自宅に舞い戻っているのですから…

私たちの心とは それほどに自由気ままに動き回るものなのです

そして それだけに自分の心をしっかりと捕まえて行くことが 修行だと言えるのです

12月は言わずと知れた「師走月」

心が定まらないと思わぬところで‘へま’をするかもしれません

皆さん くれぐれも心に用心をしてお過ごし下さいね

布教師会のブログ

和尚のささやかな幸せやさしく簡単”融通”の心得お子さまブログ ほとけのコトバ