行ってきましたっ!

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先日、「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」を観に行ってきました!

「この歳になって…」などと言わないでください。

初めて「宇宙戦艦ヤマト」をテレビで観たのは、中学生の時。

思えば このアニメとの出会いが、私を理数系に向けた、大きな一因であったと思います。

 

「ロケットを飛ばしたい! 宇宙に行ってみたい!」

漠然とした思いを、一つの目標に変えたのが「ヤマト」 でした。

 

大学では応用物理学を勉強し、量子力学の井戸型ポテンシャルに頭をひねりながら、それでも僧侶という道は一切頭には無く、師匠である父親の悩みはそっちのけで学生生活を楽しんでおりました。

今となっては懐かしい時代ですが、「ヤマト」と聞くと、居ても立ってもいられなくなるのです。

で …  観てきました。

いやぁ~ 良かった(^o^)/

 

そこで気づいたのですが、観客の7~8割が、私とどっこいどっこいの年齢の方でした。

「これって…?!」

いや、やはりそうなんでしょう!  … ご同類!

少年時代に心を震わせた作品には、いくつになっても憬れるものがあります。

息子たちは 「歳を考えや!」 などとぬかしますが、

「お前たちには熱い心は判るまい!」と、心の中でつぶやいています。

 

いくつになっても、忘れられないものがある。

いくつになっても、心を熱くするものがある。

 

それが何であっても、持っていられることが幸せなんでしょうね。

 

私は多分、死の直前になっても

「DVDでヤマト見せて~!」と、わがままを言っているのでしょうね。

縁というものの面白さ

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これを書いている翌日、私は神戸にドイツワインの試飲会に行きます(^0^)

「またワインか!」

とは言わないでくださいね!

今夏に楽しむ白ワインを少しまとめて購入するためです。

北野にあるドイツワイン専門の輸入商社とは、もう三十年以上のお付き合いになります。

とりわけ、専務さんとは何度も食事をご一緒させて頂いたり、娘が大学時代にアルバイトさせていただいたりと、本当に有り難く思っております。

ですが、この様なお付き合いをさせていただくようになった最初のきっかけは、私のクレームからでした。

その経緯はさて置き、その時に対応に当たっていただいたのが、この専務さんでした。

以来三十年、多分私が飲めなくなるまで、このお付き合いは続いていくのでしょう。

「小人は、縁があっても 縁に気付かず

中人は、縁があっても 縁を生かせず

大人は、袖触れ合う縁をも生かす」

という言葉があります。

クレームというマイナスの原因が、その人間の対応如何によって想像もしなかった深いお付き合いになる。

この世の出会いというものは、えてしてそんなものではないでしょうか?

縁というものはどこにでも転がっているもの。気付くかそうでないか。一歩踏み出すか踏み出さないか。全ては自分自身の問題です。

私自身を振り返れば、随分と縁を逃してきたように思えます。あと何年生きられるかは分かりませんが、しっかりと良き縁を捕まえて、離さないように生きていきたいです。

と…いうわけで、明日はワインとの良き出会いを求めて参ります。

グラス3杯目まではソムリエ気分。四杯目からは単なる酔っ払い!いや、ノムリエ!

やせ我慢

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先日、布教師会がお付き合いをいただいている西山浄土宗のご本山、光明寺(長岡京市)において、布教師の研修会がありました。

平成十三年から参加させていただいており、布教の実演も八年前からさせていただいています。

他宗派との交流、とりわけ布教の実演をするということは、剣道でいうところの他流試合。聞く側も、話す側も緊張の中での研修となります。

この間、十分間の休憩をはさんで二時間三十分。畳の上でじっと正座。

当たり前のように書いていますが、これが結構辛い!

長年お坊さんをやっていますと、足が痺れるようなことはまず無いのですが、体の重みからくる筋肉の痛み、足の甲の痛みはかなりきついものがあります。

そして、ここから我慢大会が始まるのです。

周りの人たちの様子をさり気なく見ながらも、自分自身は会長という立場上微動だにするわけにもいきません。背筋を伸ばし、涼しげな顔で実演をされている方をじっと見て、メモを取る。

実演はなかなか上達できませんが、やせ我慢だけはお陰様でできるようになりました。

研修会とはいえ、この場は真剣勝負の場です。大勢の布教師を前にして、緊張の極致で話をされている方に対して、胡坐をかいて背中が曲がった状態で話を聴く。それがどれ程の失礼であるのか。

逆に、最後まで姿勢を崩さずに美しい姿でいること自体が、話さずとも無言の説法になっていること。

そう考えると、僧侶というものは「立ち居振る舞いすべてが説法になっていなければいけない」ということになります。僧侶である私たちは、常に観られているということを意識して、襟を正して生活をしていかねばなりません。

そして、それがなかなかできない私は、今日もやせ我慢を続けます。

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