お彼岸

先月、お盆の行事が済んで一息ついたと思えば、もうお彼岸ですね。

そういえば、真夏の厳しい暑さの中で大合唱をしていた蝉さんたちも、いつの間にか静かになりました。

季節は常にとどまることを知らず、日に日に頭を垂れて黄金色に染まりゆく稲穂は、秋風にゆれながら収穫の時を待ち、あぜ道には色鮮やかな「彼岸花」が、誰に言われるわけでもなく静かに咲き始めています。

もうすでに、このお彼岸にあわせてお墓参りを済まされた方も多いことと思います。

特に、秋のお彼岸の中日である「秋分の日」は、国が定めた国民の祝日に関する法律に「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」と制定されていますので、お彼岸のことを「お墓参りの日」と思われても不思議ではありません。

しかし、仏教の「彼岸」には、お墓参りだけではない大切な意味が込められていますので、ここに書き記してみたいと思います。

 

〇お墓参りだけじゃない、お彼岸の意味。

そもそも「お彼岸」の「彼岸」とは、いったい何を指しているのでしょうか?

「彼岸」を一言でいえば「仏の世界」、「悟りの世界」のことです。迷いや苦しみ、そして煩悩に惑わされることのない清らかな世界を表しています。

これとは反対に、私たちの暮らしている世界は「此岸」と言い、煩悩や苦しみにあふれている世界です。

この「此岸」と「彼岸」の間には、欲望や苦しみに溢れた「河」や「海」があり、向こう岸の「悟りの世界」である「彼岸」へ到達することが、仏道修行の目的だとたとえられているのです。

では「悟りの世界」へ到達するために、具体的にどのようなことをすればいいのでしょうか?

 

〇実践!仏道修行『六波羅蜜』。

それは「六波羅蜜(ろくはらみつ)」という、6つの徳になる行いを実践することで、悟りの世界に到達できると考えられています。

1番目は「布施(ふせ)」、自分の大切なものを施し、その見返りを求めないことで徳を積むこと。ただし、施す人や施す物、そして施しを受ける人の三つそれぞれが清らかでなければなりません。

2番目は「持戒(じかい)」、戒律という約束ごとを守ること。

3番目は「忍辱(にんにく)」、侮辱や屈辱に耐えて心の苦難を乗り超えること。

4番目は「精進(しょうじん)」、必要な努力を行い続けること。

5番目は「禅定(ぜんじょう)」、やるべきことに精神を集中し、周りの出来事に動揺しないこと。

1~5の徳目を実践し、すべてを完成した時に得られる心が、6番目の「智慧(ちえ)」です。この状態になってはじめて「彼岸」に到達できるのです。

 

〇誰にでもできるお念仏の修行

ただ「彼岸や涅槃だなんて、何だかむつかしくて私には無理だわ」と思われたそこのあなた!どうか安心してください。誰にでも出来る、とっても簡単な修行方法があるのです。

それが「お念仏」です。

一日に「南無阿弥陀仏」と百遍お称えする「融通念佛」という方法で、いつでも、どこでも、誰にでも出来る、優しい修行といえましょう。

これは、私たち融通念佛宗の元祖である良忍上人が、お念仏をお称えすることで、阿弥陀様自身のお力(弥陀の本願)や、まわりの人々の称えるお念仏とのご縁によって、私たち自身も「悟りの世界」である「極楽浄土」へ到達することが出来るのだというお教えを遺してくださいました。

落とし物を見つけたことで例えると、落し物を拾っても自分のものにしてしまうような「自分さえよければいい、という人ばかりが住む世界」は、まるで地獄のようになります。

それとは反対に、落し物を拾ったときに「失くした人はきっと困っているだろう」と考えて、すぐに交番に届け出られるような「おたがいさまやおかげさまの心を持って、周りの人々を大事にできる人たちが住む世界」は、まるで極楽のように幸せがあふれるものです。

ただ、毎日百遍のお念仏を称えするといっても、人によっては難しい事かもしれません。

もし、できていないのであれば、自らを反省し「謙虚な心を持つ」ことも、このお彼岸には大切な心得だと思います。

なぜなら、人はひとりでは生きて行けない存在なのですから。

(洋)

(撮影:脇坂実希)