良忍上人

二月二十六日は 元祖良忍御上人の祥月命日 御本山・末寺で法要が営まれます

良忍御上人のお生まれは 尾張国知多郡富田之庄 現在の愛知県東海市富木島町貴船と云うところ

お父様は富田之庄一帯を治めておられた藤原秦氏兵曹道武郷 お母様は一説に熱田神宮之杜頭 大宮司の息女であったと伝わります

産声が澄みきった美しい声であった御上人 幼名を「音徳丸」とおっしゃいます

三,四歳になる頃には 泥や砂を捏ねては仏様を造り 日々その像に拝むなど 幼少の頃より信仰厚く 聡明・鋭敏な御子でした

このような音徳丸様を お父様もお母様も大層可愛がり 大事に 大事にお育てになりました

そんな日々の中 藤原家の親類・縁者にあたる 比叡山檀那院の良賀御上人が 富田の館にお越しになります

この立派なお姿に感銘を受けられた音徳丸様 いつしか「出家したい」という気持ちを大きくされて行きます

そんな思いを知った御両親は大変驚かれ あの手この手を用いて止めようと説得なされたのですが 音徳丸様の決意の堅固さに心打たれて 心ならずもお許しなられるのです

「とうとう行ってしまったなぁ」

「とうとう行ってしまいましたねぇ」

我が子の姿が見えぬようになるまで見送ってくれたお父様お母様の慈愛を胸に 音徳丸様は比叡山へと上られ 良賀上人を師として得度 「光乗坊良仁」という名を頂かれます

比叡山での修行は 厳しいものであったと思います

しかし幼少時代より聡明・鋭敏な御子であった御上人 学業も戒律もいち早く修得なさいます

学門では天台教学を 行法では円城寺禅仁律師に大乗円頓戒を 仁和寺永意上人から密教を学ばれます 戒律の修法にも精進なされた御上人 二十一歳の若さで 比叡山屈指の学者となられたのです

しかし この頃世の中は 良仁御上人の想いとは異なる方へと向かいます

諸大寺の僧は一種の貴族となって多くの階級を設け それに伴い派閥が生じ 派閥の間で特権の争うようになります やがて それは利益争いへと拡がり ついに僧兵が出現し 武力に訴える様になって行きます

良仁御上人の周囲にも 種々の問題が生じるようになります

こうした事柄に嫌悪な思いで眺める御上人 「僧が成すべきことは 下化衆生にあり」という念を強くなされ 間もなく無動寺谷の不動尊に 千日参拝の願を掛けられた後 比叡山を下られ 京都大原へと隠遁なされるのです 御上人二十三歳の時です

この時の胸中を 「逃れても 得こそ許さぬ世の憂さを 厭いて来て住む 大原の奥」とお詠みです

大原の里に籠もり 日夜勤行に精進なされ 三十八歳の頃に来迎院・浄蓮華院を開創なされ 降りかかる障りを除く為 一層の念仏三昧に励まれます

この頃 名を「良仁」から「良忍」に改められ これより二十四年の長きに渡り 不眠不座の荒行をお重ねになるのです 良忍御上人の御念仏は 一日六万遍と伝わります

この中には「聲明」という音階をもって称える御念仏があります

「大原の 里に響きし聲明に 止まり聴き入る 音無しの滝」

葉々摺り合わす木々の音 せせらぎ育む律川の音と共に 互いを拒まず妨げず 里の在り姿に融けて行く…

厳しき行の合間 穏やかに流るる時の中 瞼閉じれば あの日別れた父母の面影 「元気に居てさえ下されば…」 離れ離れになったとて 思い思われ進む道

「どのような人であっても 御念仏すれば救われる」「この教えを信じる者同士 一つになって 悟りを得る為に善行を積む」 この縁 輪の中に 父母も又あると信じて…

自分の幸せは 自分一人で育むのではない 御念仏は自と他をつなぐ接着剤です

永久五年五月十五日 御歳四十六歳 御上人の前に無量寿仏が姿をお現しになり 「良忍御上人 あなたの修行は真に尊く殊勝です しかしながら御上人一人ならそれで良いでしょうが 他の者にこのような厳しい修行は難しいでしょう そこで御上人に ここに居ながらにして往生できる最勝の教えを贈ります」と 口称融通念佛と云う 奥深い教法をお授け下さるのです

「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通念佛 億百万遍 功徳円満」 この無量寿仏より直に頂かれた偈文を以って 融通念佛宗は立教開宗へと向かうのです

時を置かずに御上人は 「融通念仏は自分の為だけじゃなく 世の中全ての人の為にある」「世の為に称えてこそ 願いの成就はあるのだ」と思いを強くなされて 御念仏の輪を広める為に 念仏勧進の僧となり 鳥羽上皇を始め 宮中の人達に御念仏を勧進されたのです

そんなある日 念仏勧進に励まれる御上人のもとに 青衣をまとった僧が訪ねてこられ 「私も念仏勧進の名帳に入りたい」と希望されます 御上人は その意を快くお受けになり 「勧進帳」をお出しになると 僧はすぐさま名前を記入し 忽然と姿を消します

御上人 「不思議なことがあるものだ」と勧進帳を確認されると なんと毘沙門天王と記されてありました

そこには「私は仏法護者の鞍馬寺の毘沙門天王 念仏結縁の人々を守護する為に来ました」と言葉が添えられておました

この御言葉に御上人 「毘沙門天王様が融通念佛を深く讃勤して下さっている」と大層喜ばれました

御上人 すぐさま鞍馬寺に参拝なされ 通夜念仏を献じられます

すると再び毘沙門天王様が姿をお現しになり 天部の神々に融通念仏日課百遍の勧進を勧めて来たと仰り 天部の神々の名を記した「神名帳」を授け下さいました

こうしたお力添えをもって背を押された御上人は 北は善光寺・華厳寺 全国を遊行なされ 念仏勧進の道を 一途にお通りになったのです

この間十五年 四十六歳から六十歳まで「勧進帳」を携えて精進なされます

入滅した後も 消えることのない御念仏の輪を讃え頂き 御桃園天皇より「聖応」と云う大師号を賜れます

「世の人すべて幸福になってほしい」と願い 念仏勧進に生涯をお掛けになった御上人

この御上人の御心を 同心結合の一人として心に留めて 幸せを求め行きたいものです (溪)

(撮影:脇坂実希)