京都の奥座敷、大原に建つ三千院。
その塀沿いに、小川の流れに沿って坂道を上ること5分ほど。
少し寂れた山門が見えてくれば、そこが来迎院である。
山門をくぐり、受付を済ませて石段を登れば、何とも風情のある本堂が眼に入る。
薬師如来を中央に、阿弥陀如来、釈迦如来を安置する本堂は慈覚大師の創建といわれ、その本堂の横をさらに奥へと進んでいくと、深い杉木立の中に、苔むした三重の石塔が現れる。
この石塔の下に眠るのが、平安時代末期に融通念佛宗を開かれた聖応大師良忍上人その人である。
石塔が建立されてから九百年近く経った今も、しばしば融通念佛宗ゆかりの人々が参拝されるためか、塔の前には白木の卒塔婆が絶えたことはない。
上人は延久5年(1073)1月1日、尾州知多郡富田荘(現 愛知県東海市)に生を受け、12歳で比叡山に登り出家。常行三昧堂の堂僧として修行の傍ら、天台宗の学問はもとより密教や戒律を修め、さらに特筆すべきは天台声明の集大成という、現在に残る謡曲や謡などの原点となるものを完成させた人である。
時に永久5年(1117)5月15日、上人46歳の時、阿弥陀如来から直々に融通念仏を授かり、こののち上人は念仏勧進の聖として長承元年(1132)2月26日に来迎院において示寂されるまで、終生を融通念仏の弘通に努め、その間大阪は平野に建つ坂上広野麿の菩提寺である修楽寺を大念佛寺と改称、融通念仏の根本道場と定められた。
融通念佛宗総本山大念佛寺の歴史はここから始まるのである。
良忍上人の生きた時代は武士が台頭し、源氏と平氏の間での勢力争いが激しくなる少し前であり、また有力寺院にあっては僧兵が幅を利かせ、比叡山ですらその例外ではなかった。
本来の仏教とはあまりにかけ離れていく現実に、上人はどれ程苦悶なされたことであろう。
若くしてその才能と学問知識を評価され、学僧のトップにまで上り詰めながらもすべてを捨てて大原に隠棲されたということは、一人の僧侶として、本来の自他救済の姿を貫こうとされたのではなかろうか。
今を生きる我々には想像もつかないことである。
上人の御廟に詣で、来迎院本堂で手を合わせると、不思議と心がしんと静まり返ってくる。
良忍上人が念仏行に明け暮れたお堂の中は、今も上人の息吹が残り、手を合わす我々を現世にいながら極楽浄土へと誘ってくれているようである。(善)
(撮影:脇坂実希)