お盆の一連の行事が終わり、ようやくホッとする日が続いています。
先日、お盆の間に行けなかった両親の里のお墓参りに行って参りました。
私の両親はどちらも滋賀県は長浜市の出身で、親戚のほとんどが長浜近郊に住んでおります。
長浜からいったいどのような経緯で大阪のしかも融通念仏宗の僧侶になり、お寺に入ったのか?
その経緯は私自身全て知っているわけではありません。師匠であった父があまり自身のことに触れることがなかったせいなのか、私があまり父親の生い立ちについて尋ねなかったせいなのか、今となってはもっと聞いておけばよかったと後悔しています。
ただ、いつも思うことは、これも「仏様に導かれるようにお寺に入った」ということでしょう。
8月末、残暑が厳しい中、車を走らせてたどり着いたお墓は、お盆にお供えされたのであろうお花を残し、その他のお墓とともに厳しい日差しの中でひっそりと佇んでいました。
父方のお墓には私が会ったこともない祖父母が眠り、母方のお墓にはかろうじて記憶に残る祖父母が眠っています。
枯れてしまったお花を抜いて新しい花をお供えする。
「爺さん婆さん、今年も来ましたよ。そっちの世界では、自分たちの子である私の両親とちゃんと会えましたか?」
・・・手を合わせながらそんなことを心の中で話しかけてみました。
僧侶として、檀家様のお墓でお勤めする時はこんなことを考えることは無いのですが、一私人であるこの時だけは色々なことを話しかけてみます。
不思議なもので、その時だけはお墓の周りに祖父母が現れて、私の独り言を聞いてくれているような気持になります。
冷たい石でしかないお墓が、その時だけは何故か暖かく感じられるのも不思議です。
お盆が過ぎ、誰もいなくなったお墓に一人佇んで心の中で話しかけてみます。
しばし瞑目の後、「ではまた来年!お盆が明けたら会いに来ます。」
大阪と長浜、それほど遠い距離ではないものの、お墓参りとなるとなかなか行き辛い距離。七夕ならぬ、年に一度のお墓参りは私にとって両親がまだ幼かった昔に会える大切な行事なのです。