時節

晩秋のとある朝に

秋ですねぇ… 本当に秋です。

紅葉が美しくなってきました。

自坊の前は桜並木。春はピンク一色に染まります。

秋には桜の葉が一足早く色を変え、今は落葉が盛んです 盛んすぎます。

大量の落ち葉が寺院駐車場に降り積もり、毎朝一生懸命掃除をしているのですが、先日あまりに忙しく「今日はちょっとお休みさせてもらいましょう」と思ったことがありました。

ところがその朝、駐車場から落ち葉を掃く音が!

んっ!?

不思議に思って見に行ってみると、一組の父子が箒をもって私たちの代わりにお掃除をしてくれているではありませんか。

この父子は、毎朝お寺の駐車場で自転車の練習をしているご近所の二人だったのです。

いつも朝早くから練習に来て、挨拶をするのが日課になり、この日は私たちがいなかったものだから、代わりにいつも練習をしている場所を掃除してくれていたのです。

寒い朝に、思わず心が温かくなりました。

この父子にとってはいつもの恩返しであったのかも知れません。それでも私は嬉しさがこみ上げてきました。

幼い男の子がお父さんと一緒に落ち葉を集めている姿は、何とも微笑ましく、この日は一日中暖かい思いで過ごすことが出来ました。

布施の姿は周りの人々の心を温かく、優しくしてくれます。仏様の心もまた私たちの心の中に温もりを与えてくださいます。

それはどちらにも慈悲心があるからです。

冬は寒いと言いますが、暖かさが心に沁みる季節でもあります。今の時代だからこそこの温もりを大切にしたいと思いました。

晩秋のとある朝の光景でした。

ちょっとホッとするお話

今年は梅雨に入るのが遅かったせいか、なかなか明けてくれません。

明ければ明けたで無茶苦茶暑くなるので、「もう少し遅れた方が良いのかな?」などと勝手なことを思ったりしています。

この季節のジメジメした空気が嫌いで、ついついエアコンの除湿モードを使ってしまうのですが、これが結構室内を冷やしてしまい、家族が体調不良にもなっています。

そんな中、ちょっとホッとして、ちょっと残念な、でもよかったねと思えることがありました。

何日か前、娘の職場に、捨てられた二匹の子ネコが連れてこられました。段ボール箱に入れられた、まだ生まれて間もないような子ネコです。

職場で飼うわけにもいかず、保健所に連れていくことはしたくないし…。

この二匹の子ネコは、一匹はかわいらしい顔をしていたそうです。ところが、もう一匹の方は、娘曰く「どう贔屓目にみても、ぶちゃいく」

生まれてからずっと一緒だったのでしょうが、箱の中でいつもじゃれ合い、寝るときも二匹が寄り添うように寝ていたそうです。

ところが、翌日にはかわいらしい方の子ネコは飼い主が見つかり、引き取られることになりました。

いつも二匹で淋しさをこらえてきた子ネコちゃん、離れ離れになるときに、お互いがこれ以上ないくらいに必死な声で「にゃーー、にゃーー!」とお互いを呼び合ったそうです。

子ネコでも、これが最後の別れになることを感じていたのでしょう。

職場では、残された子ネコが余りにも可哀そうで、みんなが相手をしてあげていたそうなんですが、娘が意を決して「もしよかったら、家に連れて帰ってもいい?」などと聞いてくるもので、家内も半分その気になって、「じゃあ、今日一日待ってみて、誰からも声がかからなければ、連れて帰りなさい。」と許可をしました。 

ところが、“捨てる神あれば拾う神あり”とでも云うのでしょうか、その日の夕方近くになって、子ネコの引き取り手が見つかったのです。

娘と家内はがっかり…

というのも、もう家内はそのつもりになって、子ネコの居場所まで作り始めていたからです。

縁がなかったと言えばそれまでなんですが、捨てられた子ネコに新しい居場所が出来たことは、本当に良かったと思いました。

そして、たとえ生き別れになったとしても、それが子ネコたちの運命なら、新しい居場所で精一杯生きていって欲しいと願わずにはおれません。

人もまた、様々な出会いと別れの中で生きています。

過去を生きることができない以上、私たちは未来へ生きていかなければならないのです。今までの自分がどうであれ、今からでも一生懸命に生きていけば、きっと未来は開かれる。

子ネコの話を聴いて、少しホッとして、ちょっと残念、でも「ああよかった」

そして、自分も最後に「ああ良かった」と言えるようになりたいと思いました。

本日はサミットにより…

お参りを中止いたしました。 …もとい、違う日にお参りを振り分けて、G20開催中はお寺にじっとしていることに致しました。
とは言え、お寺でじっとしていることはできません。
外で庭掃除… 朝から雨で、これも不可!
今はこれを書いています。

久し振りに今日は家族がみんな外出しており、心静かにお勉強が出来そうです。
ここでふと思ったのですが、我が家の飼い猫サクラは朝から自分の寝床で丸まって寝ています。
寝ているか、餌を食べているか、外に遊びに出ているか、毎日がこのローテーション!

「今日はサミットだから…」などと謂っても「我関せず」
猫にはネコの生きる道があるのですね。
この姿を見ていると、「何と自由闊達に生きているのだ。」と感心してしまいます。
猫にもネコの社会があるのでしょうが、人間ほどは「とらわれなく」生きているように思えます。

人はみな、何がしかの社会的縛りの中で生きています。たとえ僧侶であっても、師匠と弟子、あるいは宗派の中における役職といったものがその人を縛り、身動きがしにくくなってしまっているように思えます。

「捨ててこそ!」
これは、昔ある僧侶が仰った言葉であります。
人間は本来無一物。母親のお腹から「おぎゃあ~。」と生まれてきたときは、何も持たず、何もまとわずにいたものです。眼もはっきりと見えずに不安の中で、何かをつかもうと手を伸ばした時に「苦」が始まったと言われます。

今まで生きてきた人生で、掴んで離さずにいたものを「執着」と言い、それを捨てて身軽になることで、心の自由が得られるのなら、これが本当の解脱なのかも知れません。

とは言ったものの、それが出来ないから、こうして人間をやっているのです。
今までどれほど多くのものを掴んできたのか、それを手放すことは容易な事ではありません。

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