時節

ほどほど…ということ

私のお寺の窓から、遠くに「ほどほど」と書かれた看板が見えます。

私は行ったことがないのですが、どうやら喫茶店の名前らしいのです。

名前に「ほどほど」などと付けるくらいですから、「あんまりコーヒー一杯で長居をしちゃだめですよ。」…といった具合に、お客さんに入店前に釘を刺しているのかな?とか考えてしまうのですが、ネーミングとしては面白いと思います。

 

この「ほどほど」という言葉は、実に微妙なニュアンスで、物事に対する私たちのあり方を正してくれていると思うのです。

右にも左にも偏らない、言わば絶妙の立ち位置がこの「ほどほど」なのです。

その昔、お釈迦様が「中道」ということを説かれましたが、これがまさに「ほどほど」ということ。

怠惰な生活を続けることは良くない事ではありますが、だからと言って、自分の体を蝕んでしまうような厳しい修行を続けることもまた、良くはありません。

 

これは仏道に限らず、会社組織の中でも、学校の中でも、同じではないでしょうか?

車のハンドルにさえ遊びがあります。遊びがなければ、車の運転はものすごく緊張を強いられるものになるでしょう。

 

私がこんなことをつぶやいているのは、実はこの春から新しいスタートを切った方々に、「無理はしなくていいんだよ、適当なところで、息抜きも大切なんだよ。」…そう言いたかったからなのです。

白でも黒でもない、グレーゾーンをいかに持つか。そしてそのグレーゾーンの中で如何に自分を保つか?

頭の中のどこかに、この「ほどほど」という言葉を常に置いておいてください。

 

桜の季節に

今年も桜の季節がやってきました

この冬は例年に無く寒い冬で、日本海側ではかなりの雪が積もったというのに、これまた例年より早く、桜が満開となりました

 

人間とは面白いもので、桜が満開になれば寒かった冬を忘れたかのように、お花見の宴が開かれ、花とお酒に酔いしれてしまいます

 

しかし、桜が何よりも美しく見えるのは、私たち自身があの暗く寒い冬を潜り抜けてきたからなのではないでしょうか

寒さに凍える冬があるからこそ、春の暖かさの喜びを知ることが出来るのです

 

およそ人の世も同じでしょう

人生には山もあれば谷もあります。晴れた日もあれば、土砂降りの日もあります

雨宿りしたくとも一本の木もなく、雨をしのぐ傘もない。ずぶ濡れで冷え切った体を温めてくれるものさえない

希望の光が見えない中で、すべてを投げ出してしまいたくなる…

 

そんな時こそ、私たちは歩みを止めてはいけないのです

辛いとき、苦しいとき、しっかりと足元を踏みしめて歩いていきなさい。歩いてゆけば、いつの日か必ず光の下に立つことが出来る

長年僧侶をしておりますと、不思議なくらいに、そんな姿を見て参ります。

幸せというものは長く続くことはありません。その代わり、不幸せもいつまでも続くものではないのです

浮かれた季節の中で、自分の足下をしっかりとみて歩いていきたいものです。

春の味わい

今年は例年になく寒い冬でした。

これをしたためている3月初旬

嘘のような暖かさに 「あぁ もう春がそこまで来ている…」

そんな気分にさせられています。

 

そして今夜、我が家の食卓に ‘ふきのとう’ の天ぷらが並びました。

お寺の庭に自然に顔を出す食材です。

例年なら2月の下旬に食べているはずの食材が、この時期にまでずれ込むということは、やはり今年は寒かったということなのでしょう。

ほろ苦い味わいは何とも形容しがたい大人の味で、お酒のあてにピッタリです。

 

そして今月末からは、いよいよ筍の季節。

贅沢なお話ですが、お寺の裏山に、筍がわんさか顔を出してくれるのです。毎朝6時半頃から竹林に入り、多い時で30~40本掘り出してきます。

 

この時期の私は、お参りに出かける前に既に体はヘロヘロ。

掘った筍は檀家のお家へ順次お配りしています。

勿論我が家でもいろんな筍料理が食卓に彩を添えてくれます。

 

季節を味わうという楽しみは、今の時代とても贅沢なことだと思います。

スーパーに行けば、どんな季節の野菜でも手軽に手に入れることが出来、そのことで、人間が季節季節の食材の区別すら付けられなくなってきています。

その時にしか手に入らない食材を自分で苦労して手に入れ、それを美味しくいただけるのは、本当に幸せなことです。

 

毎年、整骨院のお世話になりながらも、筍料理に舌鼓をうつ私は、腰の痛みを差し引いてもやはり幸せ者なのでしょう。

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