日本海の魚はやはり美味しかった! 

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先日所用で、日帰りで京都府は宮津まで行って参りました。

今年の冬は例年に比べて寒さが一段と厳しく、京都縦貫道を走っていますと綾部に近づくにしたがって、残雪があちらこちらに残っているのが見受けられるようになり、宮津のインターを出ると除雪された雪が道路脇に高く積み上げられていました。

日本海から吹いてくる風の冷たさに、「ああ、今夜はお鍋が食べたい!」・・・そんな衝動が。

帰り際に地元のスーパーに立ち寄ってみると、「何じゃっ!こ、これは・・・。」

何でもない小さなスーパーの鮮魚コーナーに並べられた、宮津港で水揚げされたばかりの魚、サカナ、さかな、fish・・・。

何と美味しそうな魚たちでしょう!

しかも安いっ!

涎が出そうになる口をふさいで、お刺身用と調理用に買い求め、速攻で帰ってまいりました。

その夜は久しぶりに白ワインの進むこと!

冬の寒さを差し引いても、このお魚の美味しさは代えがたいものが有ります。

大阪や奈良ではこれほどの鮮度と価格は想像もできません。

ここに住んでいる方々は、毎日こんな美味しい魚を食べているのなら、楽隠居したらこちらに住むのもいいかも?

・・・などと考えながら、ふとある言葉を思い出しました。

それは、「当たり前」。

人間という生き物は、これほど美味しい魚であっても、毎日食べ続けているとそれが当たり前になってしまい、感動を覚えなくなってしまうものなのです。

今、自分の周りにあるものは、それが有って当たり前のものであり、無くなるという事など考えもしません。

美味しいお魚もそれが普通であり、当たり前なのです。

私が感じたこの感動は、食べ続けていくうちに、やがて当たり前の味になって薄れてしまうのでしょう。

そう考えると、たまにする贅沢こそ人間の感動を感動たらしめる大きな要因なのではないでしょうか?
ま、普通は高い高速料金を払って、自分で運転して、遠いところまでお魚を買い出しには行きませんよね。

それはそれとして、日本海のお魚は美味しかった!

梅一輪 

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今年の立春は何故か寒波の到来とともにやってきました。

とりわけ週末の寒さは今年一番だったように思えます。

そんな中、私のお寺の中庭にある紅梅が蕾を膨らませ、とうとう一輪の花を咲かせました。

「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」

という句がありましたが、立春寒波の中ではとても暖かさは感じられませんでした。

ただ、梅が咲き始めたという事で、一輪の梅花を見ている私の心の中に、確かに春の足音が聞こえてきたのは確かです。

この「一輪ほどの 暖かさ」とは、きっと「人の心の中に芽生える春の暖かさ」のことなのでしょう。

「寒い季節は暖かさが心に沁みる・・・」

などと書いたこともありましたが、一輪の梅花はさしずめ「凍えて暗く沈んだ心の中に灯された一つの灯」といったところでしょうか。

世間がオリンピックに沸き、コロナに振り回されていようとも、自然はただ黙々とその季節に従った営みを私たちに見せてくれます。

人の営みというものも、本来そういった世間の動きに左右されず、ただ黙々と自分の歩みを続けて行くべきもの。

それでも自然の移り変わりの中に、喜びや期待、望みを抱いてしまうのは、人間という生きものが万能ではなく、眼に見えない大いなる何かの力に縋らずにはいられない「矮小な存在」でしかないからでしょう。

ただ、今日という「一日の命」をいただいたという事の有難さに気付かせてもらえば、それが何物にも代えがたい喜びであり、梅花が一輪花を咲かせたという事実にも、命の営みの尊さや輝きを感じずにはいられません。

梅一輪、一輪に宿る命の喜びこそが春の喜びなのでしょう。

今日は何故か哲学的な文章になってしまいました。難解な文でごめんなさい。

ある写真 

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つい先日のことです。

娘がスマホのニュースに(いや、それがニュースだったのかツイッターだったのか今となっては忘れてしまったのですが)掲載された一枚の写真を見せてくれました。

写っていたのは一匹の白い大型犬。

悲しそうな眼と、自分の運命を受け入れてしまったような寂しそうな表情。

写された場所はとある保健所で、これから殺処分にされる前に撮られた一枚だったのです。

私は心をギュッと鷲掴みにされたような錯覚を覚え、それ以来この犬の姿が頭から離れなくなってしまいました。

人がペットを手放す理由は様々であることは理解しています。やむなく手放さざるを得なかったのかも知れません。

しかし、そこに写った犬の表情、姿を見た時、どうしても「何とかならなかったのだろうか?」という思いが強く残ってしまいます。

我が家にも昨年5月に一匹の四国犬がやってきました。

京都北部は伊根の山中で、パトロール中のお巡りさんに保護され、保護犬として警察署でしばらく養われていたのですが、何処からも引き取り手が現れず、あと数日で保健所に移され、先ほどの犬と同じ運命をたどるところでした。

たまたま縁があって私のお寺に連絡があり、家族と相談したうえで引き取ることになりました。

元々我が家には猫が一匹住んでおり、この猫も生まれて間もないころに、お寺の前の用水路の中に落ちて危うく死にかけていた所を助けてやったのが縁で、我が家の家族になった経緯があります。

命を大切にするという事は、人間も動物も変わりありません。

我が家にやってきた四国犬のカイ君も、来た当初は私の法衣姿にも怯えていました。どんな人に飼われていたのかは知りませんが、吠えることもせずただ怯えていました。

今ではお陰様で、私にも尻尾を振りながら飛びついてきてくれるようになりましたが、その意味でやっと家族の一員になってくれたかなとひと安心です。

私の心に深く残った一枚の写真。

ただただ、沢山のペットたちが、この写真の犬のような悲しい運命を辿らないように願わずにはいられません。

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